「私の幸福感」

 私は、北浜で37年生きて来ました。山あり、谷ありです。

 過去を思う時,ほんとうに「他力」により生かされて来たと思います。限られた時間と太陽、水は平等に与えられています。「他力」も皆にありますが、どちらも自分で感じないのです。当たり前に思い、調子のいい時は自分の力だと思い、うまく行かない時は他の「せい」にしがちです。

 近頃、星野富弘著「愛深き渕より」と云う本を読みました。体操の先生として「赴任」して1ヶ月後、鉄棒より落ち半身不随になりながら口に筆をくわえて詩や絵を書いています。彼の詩を拝借して幸福とは何だと考えて見ました。

黒い土に根を張り
どぶ水を吸って
なできれいに咲けるのだろう
私は大勢の人の愛の中にいて
なでみにくいことばかり考えるのだろう

木は自分で動きまわることができない
神様に与えられたその場所で
精一杯枝を張り許された高さまで
一生懸命伸びようとしている
そんな木を私は友達のように思っている

 周囲の人が不幸になったとき、自分が幸福と思い、他人が幸福になれば自分が不幸になってしまう。周囲に左右されない本当の幸福になれることは出来ないのだろうか。

 電動の車椅子を初めて買った時の彼の感想は、「車椅子の私を、廊下を歩きながら横目で見ていた人は、私の心がゴムまりのようにはずんでいるのを多分知らないだろう、健康な時の私のように、哀れみの目で車椅子の私を見て通ったのではないだろうか」と書いています。彼は新しい車椅子が来て心がうきうきしていたのです。

 「幸せ」ってなんだろう、「喜び」ってなんだろう。どんな境遇の中でもどんな非情な状態の中にもある一般に不幸といわれる事態の中でも、決して小さくなったりしない。病気や怪我は本来、幸、不幸の性格を持っていないのではないだろうか。病気や怪我に不幸という性格を持たせているのは、人の先入観や生きる姿勢のあり方ではないだろうか。

 私は陰口を云われているのを聞いても神は全てを知っていると思い、言い訳をしないようにしています。後から来た車にクラクションを鳴らされると腹が立ちます。お客様に1時間も玄関で待たされたことがあります。そんな時神が私に忍耐を教えてくれたと思ったら辛抱できます。

 つかみどころのない文になりました。幸福とは本来、「青い鳥」の物語にあるようにこうだと云うものはないのです。

馬留 孝一


文集の一覧へ戻る